送料無料

   

萩焼 十四代坂倉新兵衛造 惺斎好エフゴ建水(共箱)

萩焼 十四代坂倉新兵衛造 惺斎好エフゴ建水(共箱)
商品番号:6541080
価格:  12,000円
(税込 13,200円)


詳細写真(画像にカーソルをあわせていただくと拡大画面の写真が切り替わります)



閉じる
  萩焼 十四代坂倉新兵衛造 惺斎好エフゴ建水(共箱)
<商品説明>
サイズ名称 口径 高台径 高さ 長さ
本体(口径/最大) 14.6 cm 10.6 cm 9.4 cm 14.5 cm 14.9 cm  
本体(口径/最小) 13.8 cm          
底部にシミ、汚れが若干あります。
木箱にシールが貼られています。
その他には問題はなく、まだまだ使用可能な状態です。


※検索一覧と詳細ページにおいて、色の見え方が異なることがございます。
お進み頂いた詳細ページの商品の色が、より実物に近い色でございます。予めご理解ください。
タグ
流派・宗家 表千家十二代惺斎
産地・種類 萩焼
作家・窯元 坂倉新兵衛
茶室 不審庵

詳細
状態 よい
素材 陶器
萩焼(はぎやき)  山口県萩市。  萩焼は高麗焼とも呼ばれ、1604年に毛利輝元の招きで萩藩に召し抱えられた李勺光・李敬兄弟により高麗焼の技を用いて藩の御用焼として開窯されたもの。以来藩主の庇護のもと発展し多く愛好されるようになった。  独特の柔らかな風合いと変転極まりない窯変が特徴で、表面の細かなヒビから水分が浸透し、器の中から表面にまで至るため使いこむほどに器の色合いが徐々に変化する「萩の七化け」の面白さは他に類を見ない。  古来より茶人の間では「一楽 二萩 三唐津」と賞賛され広く珍重されている。

坂倉新兵衛 さかくらしんべえ  陶芸家。山口県萩市の萩焼窯元・板倉家の名跡。 板倉窯当主が代々「坂倉新兵衛」の名を継承している。 慶長の役(1592~98年)の頃に毛利輝元に招かれた朝鮮の陶工兄弟の兄・李勺光(り しゃくこう)を初代とする(弟の李敬は後の坂高麗左衛門)。六代目で坂倉姓に改名された。 ・二代 山村新兵衛光政(生年不詳~1658(明暦4))  初代の子。初代の弟子蔵崎五郎左衛門らが藩の許しを得て深川三之瀬に窯を築いた。 ・三代 山村平四郎光俊 (生年不詳~1709(宝永6))  二代の子。明暦三年(1657年)に深川三之瀬の窯に移る。藩の御用窯として「三之瀬焼物所」が創業され、これが深川窯(坂倉新兵衛・坂田泥華・田原陶兵衛・新庄助右衛門の萩焼の4つの窯元)の始まりといわれている。 ・四代 弥兵衛光信(生年不詳~1724(享保9)) ・五代 源次郎光長(生年不詳~1760(宝暦10)) ・六代 坂倉藤左衛門(生年不詳~1770(明和7))  板倉姓に改名。 ・七代 坂倉五郎右衛門(生年不詳~1792(寛政4)) ・八代 坂倉半平 (生年不詳~1822(文政5)) ・九代 坂倉平助 (生年不詳~1850(嘉永3)) ・十代 坂倉九郎右衛門 (生年不詳~1857(安政4)) ・十一代 坂倉新兵衛(生年不詳~1897(明治30)) ・十二代 坂倉新兵衛(1881〜1960) 十一代坂倉新兵衛の長男。幼名・平吉。明治30年に十二代を継承。31年から坂家九代・高麗左衛門(こうらいざえもん)の元で萩焼を学んだ。藩が廃止されてから衰退していた萩焼を復興し、萩焼中興の祖と呼ばれる。茶の湯との結びつきを強め、茶陶としての萩焼のイメージを確立した。 吉田松陰の兄・杉民治に師事して茶道を学び、後に茶陶としての技術を高める為に表千家十二代惺斎宗左に師事し、御好み道具制作の御下命を受けた。控えめで温和な茶の湯の場になじむ作品をつくった。 多数の受賞歴を持ち、1956年に山口県無形文化財に認定された。1960年死去、享年79歳。 ・十三代 坂倉新兵衛 (生年不詳〜1945)  十二代の長男。本名光太郎。戦死したため、十三代坂倉新兵衛の名を追贈された。 ・十四代 坂倉新兵衛宗治(1917〜1975) 十二代坂倉新兵衛の3男。本名・治平。 1934年に山口県立萩商業学校を卒業した後神戸市で就めていたが、1945年に長兄の戦死が確認されたため家業に入り父に師事した。1960年に父・十二代が他界した際に十四代を襲名した。日本現代陶芸展や日本伝統工芸展などに入選し、1972年山口県指定無形文化財保持者の認定を受け、1974年には山口県選奨(芸術文化功労)を受賞。 父の温和な作風に近代性を加えて、それまで萩焼ではあまり作られなかった物も多く作陶した。 1975年死去、享年58歳。 ・十五代 坂倉新兵衛(1949〜)  十四代の長男。本名・正治。1974年に東京芸術大学大学院陶芸専攻を卒業後、父の病のため帰郷。家業にはいるが、十四代は入退院を繰り返していたので、師事した期間は半年ほどだった。1978年に十四代が死去し、26歳で十五代坂倉新兵衛を襲名。 国内外で個展および出品を行い、多くの賞を受賞。2004年に山口県選奨受賞、2013年には県指定無形文化財に認定された。

表千家  千利休を祖とし、二代千少菴を経て三代千宗旦の三男江岑宗左からはじまる。不審菴ともいい歴代の名乗りは宗左。 ●四代 江岑宗左 1613~1672  名は右馬之允(うめのすけ)といい茶名ははじめ宗受のち宗左。  寛永十九年(1642)紀州徳川家に仕え、その際藩主から系譜や由緒書等を微されたため千阿弥を祖とする千家系譜が成立。  好みの道具としては、唐銅鳳凰風炉・大朱手桶・三木町棚がある。  寛文十二年に亡くなる。 ●五代 随流斎良休 1650~1691  幼名源三郎。宗旦の娘のくれと久田家二代宗利との間に生まれ、寛文のはじめ(1661)ころ表千家に迎えられた。  はじめ宗巴のち良休宗左と称し、随流斎の号は大徳寺一渓宗什から授与された。好みものには蔦茶桶が有名。  実家久田家から兄宗全の子を養子に迎え、元禄四年四十二歳で亡くなった。   ●六代 覚々斎原叟 1678~1730  幼名勘太郎、久田宗全の子。  十二歳の頃随流斎の養子となり宗員の名で修行した。十四歳のころ養父に死別して六代を継ぎ宗左を名乗り、流芳軒と号した。別号の原叟は没後の追号。  亨保八年江戸に上ったおり将軍吉宗から唐津の茶碗を与えられた。桑原茶碗という。  随流斎の三女である妻の秋との間に如心斎・宗乾・一燈の三子があり如心斎は七代を継ぎ、宗乾・一燈は裏千家の養子に入り七代最々斎・八代又玄斎となった。  好みの茶道具は多く桐木地三重棚、菊桐蒔絵雪吹大小、ぶりぶり香合、松の木四方盆、手付置籠、少阿弥陀堂釜、網絵懐石家具一式などが有名。茶室の好みには原叟床四畳半、枡床四畳半などがある。 ●七代 如心斎天然 1705~1751  幼名与太郎のち宗巴、宗員。六代覚々斎の長男。  二十六歳で家元を継承、如心斎の号は紀州候から受け丁々軒とも号した。また天然の号を大徳寺の大龍宗丈から受け、椿斎の号ある。  紀州徳川家の庇護および三井八郎兵衛の経済的援助を受けた。  如心斎は大徳寺の無学宗衍・大龍宗丈、弟の裏千家八代又玄斎、塗師三代中村宗哲らと七事式を制定し、これに適した八畳床付の花月楼を好んだ。  元文四年(1739)利休百五十回忌に当たり利休堂を建立。 ●八代 啐啄斎件翁 1744~1808  幼名与太郎。七代如心斎の長男で八歳のとき死別、川上不白らの援助を受け叔父の裏千家八代又玄斎の指導を仰ぎ茶湯の修行に励んだ。  十四歳のとき宗旦百回忌を迎えそれを機会に宗左を名乗り八代家元を継承。  天明八年(1788)大火により茶道具以外全てを焼失。  好みの茶道具としては不審庵西の坪の松の大木で好んだスリ漆丸香合、鉋目敷板、松の木溜塗丸卓、鉄道安風炉、蔦平茶器などがある。  文化元年還暦を迎え隠居し宗旦を名乗りそれを記念して干支にちなみ、啄元弥介に赤黒の甲子茶碗を作らせた。 ● 九代 了々斎曠叔 1775~1825 幼名貞蔵。久田家六代宗渓の長男。  八代啐啄斎の長男と長女は早世しあとに三人の娘がいたが、その上の娘沢の婿養子として久田家から迎えられた。  三十四歳で九代を継ぎ紀州徳川家に仕え、和歌山西浜御殿のうちに実際庵の三畳台目の席を好んだ。  また文政二年春、楽家十代旦入とともに出仕し製陶にたずさわり、文化十三年(1816)に大徳寺剛堂宗健から好雪軒の号を受けた。表千家の総門をなす武家門は文政五年四月、紀州徳川家の治宝を迎えた節に建てたものと伝えられる。  好みの茶道具に青漆爪紅長板、真塗小手桶、金入灰器、朱黒網絵懐石家具などがある。 ● 十代 吸江斎祥翁 1818~1860 九代了々斎には男子があったが早世、また弟の皓々斎は久田家に留まり 啐啄斎の娘きとを妻としていたのでその子、達蔵を迎え十代家元とした。九歳であったため後見に住山楊甫が当たり十歳のとき紀州家に出仕した。  天保七年(1836)徳川治宝は吸江斎に台子真点前の皆伝を授けた。  天保十年利休二百五十回忌を務め追善茶会を催し、弘化二年(1845)大徳寺拙叟宗益より安祥軒の軒号を与えられた。のち、如心斎百回忌・宗旦二百年忌などを営んだ。  好みの茶道具には溜二重棚、手付桐煙草盆、玉の絵棗などがある。 ●十一代 碌々斎瑞翁 1837~1910  幼名与太郎のち宗員、吸江斎没後宗左を名乗った。十代吸江斎の長男。  二十余歳で十一代を継いだが間もなく明治維新を迎え江岑以来の紀州徳川家の出仕のこともやみ、家元にとって苦難の時代を迎えたが、明治十年を過ぎると茶道界も近代の茶道としての第一歩を踏み出した。  明治十三年北野天満宮に献茶奉仕、栂尾高山寺で明恵上人六百五十回忌に際し供茶をした。同二十三年には利休三百年忌、また随流斎二百年忌の追悼茶事を行った。  明治二十五年隠居して宗旦と称す。同三十九年表門を除く家屋の全てを焼失したが同四十二年には残月亭のみ復興した。  好みの茶道具では既望棗、ふくべ釜がある。 ●十二代 惺斎敬翁 1863~1937  十一代碌々斎の長男で、碌々斎が早く隠居したため十二代を継承したが重要な行事は碌々斎が主となった。  碌々斎の没後は表千家復興のため努力し大正二年(1913)に不審庵の再興、同十年には松風楼を増築した。  好みの茶道具は歴代の中で最も多く、その多くは千家十職によるもの。また鎌倉彫、萩焼、膳所焼、薩摩焼なども多い。  惺斎の嫡男与太郎は昭和十年に宗員号を大徳寺の円山伝衣から受け、弟の覚次郎とともに、病気がちであった惺斎を助けるはずだったが父に先立って四十歳で亡くなった。 ●十三代 即中斎無盡 1901~1979  十二代惺斎の次男。長兄宗員の早逝により昭和十二年宗左を襲名。  昭和二十四年財団法人不審庵を設立、同五十年には表千家同門会を社団法人とし機関誌「同門」を発行。  昭和五十四年七十九歳で亡くなる。 ●十四代 而妙斎宗左 1938~  名は岑一郎、十三代即中斎の長男。  中央大学卒業。昭和五十五年十四代家元を襲名した。