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千家十職中村宗哲造 梅香合(武者小路千家九代好々斎書付)(共箱)

千家十職中村宗哲造 梅香合(武者小路千家九代好々斎書付)(共箱)
商品番号:5904840
価格:  30,000円
(税込 33,000円)


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  千家十職中村宗哲造 梅香合(武者小路千家九代好々斎書付)(共箱)
<商品説明>
サイズ名称 口径 高台径 高さ 長さ
    3.8 cm   7.3 cm  
蓋に直しがあるが、直しの上から蒔絵・花押があるので、後天的な傷を直したものではなく、意匠としての直しです。

その他には問題はなく、まだまだ使用可能な状態です。


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タグ
流派・宗家 武者小路千家九代好々斎
千家・十職 中村宗哲
茶室 官休庵

詳細
状態 よい
素材 木・漆
武者小路千家  千利休を祖とし、二代千少菴を経て三代千宗旦の次男一翁宗守からはじまる。官休庵ともいう。歴代の名乗りは宗守。 ● 四代 一翁宗守 1605~1675 塗師吉文字与三右衛門の養子になり甚右衛門と名乗っていたが、吉文字屋の 業を娘婿の中村宗哲に譲り千家に復した。  高松松平候に茶頭として仕えたが、辞して武者小路小川に官休庵を建てて武者小路千家を開いた。 ●五代 許由斎文叔 1658~1708  はじめ甚四郎、のち宗守と改める。四代一翁宗守の子。  一翁宗守に続いて高松松平候に仕えた。  古器の鑑識に長じたとされる。 ●六代 静々斎真伯 1693~1745  幼名は重治郎。五代許由斎の子。  筆蹟や好み物などから、才気、好芸の人で手作り茶碗も多い。また同家伝来の木守茶碗を自ら写し、本歌を高松松平候に献上した。  延享二年、五十三歳で亡くなる。 ●七代 直斎堅叟 1725~1782  幼名は久之丞、節翁・一方庵・弘道庵と号す。六代静々斎の養子となった。  好みの茶道具に名取河香合、源氏車香合などがある。安永元年(1772)火災により建物を焼失したが同三年の一翁百回忌を迎えるに当たって再建した。  またその際に邸内の一隅に一方庵、十五畳敷の広間弘道庵の両席が好まれた。 武者小路千家中興の祖とされる。  天明二年五十八歳で亡くなる。 ●八代 一啜斎休翁 1763~1838 川越兵庫頭の子、二十歳で七代直斎の養子となった。円明、渓澗、一方庵、 半宝庵、披雲庵と号した。  好みものが多く、ツボツボ棚、烏帽子棚、自在棚など新しい趣向の棚物がある。  天保九年七十六歳で亡くなる。 ● 九代 好々斎仁翁 1795~1835 はじめ宗什、玄室、宗屋といったが、のち八代一啜斎の婿養子となり、好々 斎と号した。裏千家九代不見斎の三男。  自作の茶杓や手作り茶碗も多く、楽焼以外に尾張の御深井などで志野風のものなどかなり多く残されている。  天保六年亡くなった。 ●十代 以心斎全道 1830~1891  表千家十代吸江斎の弟で六歳のときに九代好々斎の養子になり武者小路千家に入り宗守を継ぎ、全道と号した。  八歳で失明したため好々斎の未亡人宗栄が門下の木津宗詮の協力を得て家職を代行したが、引き続き表千家より養子を迎え次を継がせた。  以心斎は代を譲ったあと宗安と号した。  明治二十四年、六十二歳で亡くなる。 ●十一代 一指斎一叟 1848~1898  表千家十代吸江斎の次男、五歳のとき十代以心斎の養子になり、はじめ宗屋、のち宗守を継いだ。  現在残されている祖堂(涛々軒)は一指斎の指図によるもの。達筆で七歳ごろの一行物が残っている。  明治三十一年五十一歳で亡くなる。 ●十二代 愈好斎聴松 1889~1953  久田宗悦(表千家十代吸江斎の三男)の次男。五歳のときに十一代一指斎の養子に入る。はじめ宗屋、のち宗守を継いだ。一指斎が亡くなったあと門人の廣瀬露香、木津宗詮が家元を代行した。  東京帝国大学史学科を卒業後茶湯の世界にはじめて論理的な批判を加え新風を打ち立てた。大正十五年(1926)官休庵を改築、昭和十五年の利休三百五十年忌には、弘道庵を再建した。著述も多数ある。  昭和二十八年六十五歳没。 ●十三代 有隣斎徳翁 1912~1999  神戸の島屋に生まれ、十二代愈好斎の婿養子になった。はじめ宗屋、のち宗守を継いだ。  京都帝国大学国史科卒業。昭和十六年に愈好斎の娘澄子と結婚、昭和二十八年に家督を継いだ。  千茶道文化学院の創設、財団法人官休庵の設立に尽くした。  平成元年に家督を譲り、宗安と号した。平成十一年八十六歳で亡くなる。 ●十四代 不徹斎宗守 1945~  十三代有隣斎の長男。はじめ方一、のち宗屋を名乗る。  慶應義塾大学卒業、昭和五十五年から海外で講演や茶会を催し茶道の紹介に尽くしている。  平成元年に十四代を継いだ。

中村宗哲 千家十職、塗師。 ●初代 宗哲 1617~1695  通称は八左衛門、八兵衛。  表千家四代江岑、裏千家四代仙叟、武者小路千家四代一翁の好み物をつくり、藤村庸軒とも親しく交わり、その好みの凡鳥棗をつくっている。また茶杓の下削りにも優れ、宗旦、一翁、庸軒の下削り、漆拭きをしたと伝えられる。  以後代々宗哲を称して千家十職となった。 ●二代 宗哲 1671~1706  幼名は八兵衛、号は汲斎。  十一歳のとき仙叟の茶事に列し庸軒茶会の参事も知られる。作品は少ないが凡鳥棗・竹中次などが伝世する。 ●三代 宗哲 1700~1776  幼名は鍋千代、通称八兵衛。  七十歳の賀に七百の内として、棗・型物を十種つくったが、これは彭祖棗として有名で、彭祖宗哲の名を得た。  また、乱菊棗、夜桜棗なども知られ、歴代中最もその名が高い。 ●四代 宗哲 1728~1791  三代宗哲の婿養子。通称は八郎兵衛、名は為安。  武者小路千家七代直斎好み糸目懐石家具などがしられる。茶道具製作には豊田八郎兵衛の名の置名を用いている。 ●五代 宗哲 1764~1811  四代宗哲の婿養子。名は八兵衛、守一。豹斎と号し初代からの寸法帳、切型などを整備し、家譜を整えた。  裏千家十代認得斎好み蔦棗が知られる。 ●六代 宗哲 1792~1839  五代宗哲の長男。幼名は昌之助、元服後は八兵衛、為一。  文化八年(1811)に六代を継いだが四年後に家督を弟に譲り分家した。認得斎好み宝船棗などが知られる。 ●七代 宗哲 1798~1846  五代宗哲の次男。幼名は槌六、のち安一、八兵衛。黒牡丹などと号す。  裏千家十一代玄々斎の推挙により尾張徳川家から「得玄」の印を拝領した。認得斎好み夕顔中棗、玄々斎好み西山名所棗の連作などが知られる。  歴代中最も優れた作品を残した。 ●八代 宗哲 1828~1884  七代宗哲の長男。幼名は丑之助、のち八郎兵衛、忠一。到斎、蜂老と号し、また大徳寺大綱宗彦から聴雨の号を受けた。  表千家十一代碌々斎好み羽衣棗、曙棗、井伊宗観好み月次茶器が知られる。 ●九代 宗哲 1856~1911  八代宗哲の婿養子。名は喜三郎、義生。英斎と号す。  表千家十一代碌々斎好み溜ミル貝雪吹、同十二代惺斎好み後赤壁既望棗などが知られる。 ●十代 尼宗哲 1862~1926  八代宗哲の四女、九代宗哲の妻。  九代の没後長男哲太郎(一哲)が別居したため家業を継ぎ、大正の茶道隆盛期にあって千家好み物の大半を製作した。  惺斎好み物を多く手がけた。 ●十一代 宗哲 1899~1993  九代宗哲の次男。名は忠蔵、八郎兵衛。元斎と号す。  十六歳の大正三年(1914)から千家に出入りし、同十四年に家業を継いだ。  表千家では十二代惺斎好み醍醐枝垂桜大棗、十三代即中斎好み月次源氏茶杓、十四代而妙斎好みミル貝大棗、裏千家では十四代無限斎(淡々斎)好み祇園名所棗、十五代鵬雲斎好み若松台子、武者小路千家では十二代愈好斎好み雲錦炉縁、十三代有隣斎好み海賦棗が知られる。  京都府文化功労賞、茶道文化功労賞の表彰を受けた。 ● 十二代 宗哲 1932~2005 十一代宗哲の長女。名は弘子。京都市立美術大学卒業。  歴代の作品集をまとめ、昭和六十一年より千家に出仕。表千家十四代而妙斎好み秋草棗、三花炉縁、裏千家十五代鵬雲斎好み桐文台子、花鳥風月四季棗などがある。  京都府文化功労賞を受賞した。 ● 十三代 宗哲 1965〜 十二代宗哲の次女。名は公美。  平成十八年に十三代宗哲を襲名した。